ミステリーの森

誰が風を見たでしょう あなたも私も見やしない だけど梢を震わせて 風は通りすぎていく

やっとかめ書道教室殺人事件

 
 その哀しい事件は東海地区のある地方都市で起った。残暑の厳しい九月の第二土曜日の昼下がり、真宗のお寺の一室を借りた書道教室の勝手口を出た水場の前に、無残にも頭を割られ血みどろになった初老の女性が倒れていた。手には洗いかけの臨書用の筆、上海工芸の(労)が握られていた。
 
第一章
 
「立春が過ぎると気持ちも春めくぎゃあ」と片丘美鈴は書道仲間の井ノ上康子に声をかけている。美鈴は筆人会に入ってはや10年になり、少しは腕に自信ができて、月1回の教室にはいつも一番乗りである。3年ほど前からヨガ教室で知り合った井ノ上康子を強引に「一遍見るだけでもええがや、筆人会の書道はちーっと世間の書道とは違うで。よそゆきにしこったように綺麗に書かんでもええ。気持ちがこもっとることがでゃあーじだがや。筆人会はよう、田森紫龍とかいうて、そりゃあどらけにゃあ偉い先生が、なんでも昭和27年ごろに、『今までの書壇の在り方ではだちかん!』いうて京都の竜安寺たらいう石がゴロゴロしとるお寺の庭でもって、同志4人と今の筆人会をこさえなさったんよ。ほいで・・・」と毎々口癖のように、スキのポーズをしているときであろうが、コブラのポーズをしながらでも井ノ上康子を熱心に誘うため、康子もほどなく3年前から一緒に通っている。片丘美鈴も井ノ上康子も連れ合いを亡くして久しい。美鈴はなかなかハイカラな婆ちゃんで、歌などは、演歌よりも あいみょんとかMISIA なんかがお気に入りだ。
 康子は他にも謡いとお茶をやっている。筆人会では大きな筆を鬼の形相で振り回しているところしか見つけない仲間は、たまに新年の研究会かなんかで康子の和服姿にぶったまげたりする。要するに二人とも若い頃は何かと時代のせいもあり、苦労したが今は時間の余裕もでき、多少の蓄えもあるので自分を見つけたい、自己実現したいというなかなか上等なおばあちゃんである。
 「石蕗の葉がつやつやと照ってなんて美しい庭やろね。落ち着くみゃあ」とにっこり微笑むちょっと粋で上品な女性がつぶやいた。石黒みつ子である。向こうには夏合宿以外めったに顔を見せない、蝉のような網戸久美子の白髪交じりの顔もある。この人は浴衣の君とよばれていて、筆人の夏合宿では浴衣姿で田森先生の横に侍り,うちわで風を送るという奇特な人格者である。またこちらには、今年の夏合宿で研究発表を控えているため、遠く島根の方から熱心にも早朝に家を出てやって来た川田啓介の顔も見える。この人は朴訥でのんびりして見える。色白でムーミンのような身体つきをしているのでなおさらである。2年前に小学校校長を退官した。
 
 この物語の主人公、鳥飼哲千代も仲間の一人である。名前に似合わずまだ周りと比べると比較的若い48歳の独身男である。この男は少々変わっている。京都の立迷館大学の書道部で部長をしていた男であるが、書に熱をあげてまったく勉強せず中退している。ま、アホである。その割に当時の作品はまったく評価されなかったという落ちまでついている。本人に言わせると、「小学校んときに鉄棒で頭から落ちてまって首の骨がズレてまってかんわ、ええ字がようも書けん」などと言い訳している。筆人会のメンバーは教職員が多いなかで、鳥飼はずーっと平のサラリーマンで甲斐性もないため未だ独身であるが、書はずっと続けている。昨年春に突然「書家として生きる!」とあまり深くも考えずにサラリーマンを辞めた。ま、アホである。ただ鳥飼の書歴は30年近くになり、筆人会の会員でもあるため、毎月1回の教室では何かと指導的な立場に置かれている。だがしかし、筆人会はみな平等であるから「あー鳥飼さん、ちょうどええわ、そこの墨とってちょ」などと使われている。
「鳥飼さん、鳥飼さんちょっと見てちょうせ。私あれからめちゃんこ書いたがねー。私の場合ちょっと筆が荒いとみな言いやーすやろ、けどこれなんかちょっとは墨が乗ったかしゃんと思いよるんやけど、どやろ?」小っちゃくて丸い、一昔前のトイレの消臭剤に似たスーパーバーバと呼ばれている中森綾乃である。この人の息子が偶然にも鳥飼の高校時代の同級生であるのも面白い。こうして毎回7、8人集まって古典の臨書を中心に勉強しているのである。
 
 ここで少し整理しておくと筆人会組織は全国にあって、新年の研究会、初夏の東京展、夏の合宿、秋の京都展などがあり、それぞれの地域でサークル活動を行っているのだ。物語の舞台の東海サークルでも月に1回仏性院というお寺の一室を借りて皆が書の勉強に励んでいる。因みに事務局は岐阜に置かれていて、局長は辻井極太という名前に似合わず細身の丑年生まれ77歳、非常にお元気な方である。
 
 東海サークルの勉強会は毎月第2土曜日の1時から始まり、だいたいメンバーが三々五々集まるが、この日は珍しく新顔があった。どうやら美鈴が連れて来たらしく挨拶を始めた。
 「今日初めてみえるもんでー紹介するみゃあ。松下礼子さん言われます、最近親しいさしてもらっとるの。なんか暇をもてあます、言わっしゃるもんでこの会に誘ったがや。最初は書道みたいもん、やったことにゃーでって言っとらしたが、『一遍みせてまうわ』言うて来られたがや」
「初めまして、松下礼子と申します。片丘さんの紹介で何も分からないまま、厚かましく寄せていただきました。私は書道のほうはまったく経験がありません。ただ、昨年春に主人を亡くしたのですが、主人が少しばかり書道をやっておりました。私は詳しく存じませんが日展系の団体におりまして、指導的な立場にもあったようです。賞状なども家には結構ございます。私はこれまでひと様の中に交わることが苦手で、こうして人前でお話しすることも今までなら思いもよらないことなのですが、美鈴さんと知り合って活き活きとした美鈴さんを見ていますと、このままひとりでポツンと老いて行くのかと思うと無性に寂しくなりまして・・・」
 
 聞いてみると、元々は横浜生まれで、主人とも最初は横浜にいたが、主人の仕事の関係でこちらに来ることになった。子供はいない。主人の父親は早く亡くなっているが、今は母親が寝たきりでいる。横浜に帰ってもよさそうなものだが、殊勝にも亡き主人の母親を介護しているという。このあと、一人ずつ自己紹介が終わって今年の筆人の課題臨書、造像記へと取り組むことになる。松下礼子も教えてもらいながらそろそろと書き始めた。
 
 中国は紀元前から漢民族と北方、西域の異民族の鬩ぎ合いの中で幾多の王朝が交替してきた歴史がある。三世紀の始め、漢民族の 晋 という王朝があったが、その北方の寒冷不毛、山また山という厳しい自然の中で放牧していた未開民族が攻め入り、晋 を揚子江南にまで追いやった。そこに漢文化との熱き融合の中で仏教信仰とも絡み合って洛陽郊外、龍門石窟群の開鑿をみることとなる。比丘慧成が国家のために造営した古陽洞をその嚆矢とする。壁面に立ち並ぶ石仏群、そこに彫り込まれた文字、これが造営の由来を記した世にいう龍門造像記である。何百と数えられる偉容を誇る。一般に書的に評価されているものとして龍門十品、また龍門二十品として今に伝わる。代表的なものに始平公造像記、牛橛造像記、賀蘭汗造像記などが挙げられる。
 
「3時になったんでお茶にしょうみゃあ」サークル当番の畠田加代が声をかける。会の連絡や会計、お茶菓子の用意まで一手に世話を引き受けてまめまめしく働く、こつま南京のような人である。彼女も独り身の気楽さもあってか、最近アトリエの続きに ギャラリーパンジー を始めたキャリアウーマンである。年齢は不詳だが鳥飼は50代半ばと睨んでいる。この日は顔を見せないが東海地方の片田舎古曽部の住人、古林靖国はこのギャラリーパンジーで個展、古法帖展を立て続けに催している。この4月にも個展をやるそうな。えらく熱心で親しくしている。しかし鳥飼はイワユル個人的な、ま、ややこしー関係まではないと睨んでいる。なんでも睨む男である。このお茶の時間を利用して家で書いてきたものとか、今しがた書きあげた半紙大の臨書4枚をタテにつないで鴨居にハンガーで吊る。右から順番に作者の言と皆の感想を言い合うのだ。和やかに進むがそれなりに皆真剣である。
 
   最初は片岡美鈴の臨書から始められた。始平公の「十四」・「有」・と建中告身帖の「何」・「忠」という文字が貼り出されている。課題は造像記だが他の古典を出すこともある。あまり杓子定規にならないところが筆人会らしい。また、一般の書道教室では半紙に四文字とか六文字も書くところが多いが、筆人では半紙に一文字ないし二文字を書く。これには筆人の思想が反映されている。筆人は筆の理を外したところに本当の書はないと考える。ために、筆のはたらきがハッキリ分かるように大きく書くのである。
「十四の一画目入るとこあるでしょう、筆をずらさんように横にそのまま突いてゆくのはどえらい難しいわね、なかなか出来せん。あと四の一画目、左手線言うんか難儀やはねえ。なんでも感想言うてちょうせ。」
こんな調子で順々に批評しあってゆく。最後まで来たとき、中森綾乃が、「今日初めて来られた松下さんの臨書があれせんね」と思いだしたように言った。礼子は気まずそうに、「私、まだ見ていただくようなものはとても・・・」
「なに言うとるでぃやあ、えーて、えーて。最初から皆よーも書けんわ。出してみなかんて、かんて」と美鈴が半ば無理やり一枚出させた。始平公の「石」が貼り出された。
「素直な線でええんと違う」と浴衣の君、網戸久美子。
「左の払いなんかよう書けちょるねえ、なかなかいいねえ、墨が輝いちょるねえ」とムーミン川田。
「お人柄やにゃーかね、形がしゃんとしとらっせるわ。三画目の打ち込み、四画目の筆の角度がちょっとばかし違っとるけど、じきに直りゃあ」と筆人の会員でもあるスーパーバーバ中森綾乃が分析した。
「そんなに言ってただきますとこれからも頑張って行こうと意欲が湧いてきます。ありがとうございます。」と礼子は歳の割には艶のある色白の頬をほんのり赤らめた。美鈴も嬉しそうにしている。
「あと一時間頑張ろみゃあ」とどこかで声がしたのを潮に皆また机に向かう。お茶のあとかたずけは網戸久美子、井ノ上康子、松下礼子が手っ取り早く済ませた。
 鳥飼は自分も書くが要望もあって見て回ることも多い。黒石みつ子が縦線をどうも窮屈そうに引いているので、後ろから手を添えて動きを教えたりした。それを横で見ていた井ノ上康子が「私も手え添えてまって教えてもらえりゃあ早よーに上達するかもしれんわね」と半ば鳥飼に聞こえるように独りごちたが、もちろん鳥飼は聞こえないふりをして立ち去る。そんなこんなでこの日も教室は無事に終わった。
 
 さて、ここまででこの物語りの主要舞台を描き終えたわけだが、心ない読者から筆者に向けて、「ハハーン、犯人は〇〇ですね」とか「言っとくが私は横浜じゃなくて渋谷の生まれじゃ」とか「どうして登場するおばさんは後家が多いのか、筆者の趣味か」とかさらに酷いものになると、あろうことか無遠慮にも「井ノ上康子は誰々のことか」とか、果ては「話の進行が遅い。学術的なことは要らん。古林の話はないのか」とか、とか。ヤメテもらいたい!キッパリ。創作者に対するあるまじき暴挙である。ここで断言しておくが、『やっとかめ書道教室殺人事件』は物語としは 源氏物語 に拮抗し、その思想性においては親鸞の 教行信証 に比肩する。また芸術論としては世阿弥の 風姿花伝 を置き去りにし、啓発して日本人に自らの誇りを取り戻させるという視点で言うなら、坂の上の雲の先 とでも言いたいものである。読者はこの希有な一大叙事詩に幸運にも遭遇した歴史の証人であり、その身に余る光栄を想うべきである。当然のことながら襟を正して読んでもらいたい。だから、、、「俺はまだでてけーへんなあ」とか、論外である。
 
 鳥飼が教室から帰ると電話があった。大学の先輩、田畑満知穂からであった。
「あー鳥飼ちゃんか、今日行ってきたんか、ご苦労さん」一応労う心配りはあるが、心に黒いものを持っている。証拠に若い娘は大好きだが歳上は好まず、教室の日は必ずと言っていいほど法事が入るのである。実際、年間に葬儀も含めると60件はこなす。仏事全般に精通している所以である。家族関係、近所付き合い、対人関係をソツなくこなすが本質は仮面社会人である。10代半ばで人生のあわれを感じ、法蔵館発刊の厚さ15㎝もあるような宗教書 大法輪 を耽読し、20代で謡曲のなとり、30代40代は毎夜柳ケ瀬界隈で浮名をながし花街にその名を馳せ、53の現在は気に入ったおねえちゃんの写真集を本屋でチェックしたりしている。まったく人生の流れが逆行しているような男である。今後はポロロッカ田畑と呼ぶことにする。筆人会では若い頃から東海サークルでは才能があると皆が認めるところではあったが、全国的な活動にあまり顔を出すこともなかったため、関東の暴れん坊と謳われた中林弘文とよく間違われたりした。シルエットは確かに似ているが・・・。
 近年田森紫龍とお別れする会の弔辞一本で男をあげた。余談ではあるが、このポロロッカは弔辞に熱を入れて何回も下読みするのはよいが、一度鳥飼が外出から帰った時など留守番電話を再生してみると、何の前置きもなしに延々とテープいっぱいにポロロッカの弔辞の下読みが入っていて辟易させられたことがある。人の迷惑は3年でも我慢できる、そういう男である。
 
第二章
 
「なんぼ書いても同じようなものしか出来せんわ。型に嵌まっまったようで納得できせん。面白ないみゃあ」と畠田加代。
「しっかり書いとらっせるけどなあ。しっかり書くという事が目的になっとるから面白うないんかしゃん」と片丘美鈴。
「結果的にしっかり書けとったらええがや。野球のピッチャーでもそうだぎゃ。ええ球投げんならん思っとると球が死によるわなあ。特にでゃあじ(大事)な場面でスリーボールノーストライクなんかなっとりゃストライクが欲しいもんで、球を置きにいきよって、勢いもなーんもあれーせん棒球を投げてまってスコーンと打たれよる。本当の勢いがあれせん。投げとっても面白うないで。それと同じだぎゃ」と鳥飼はとんでもない例え話をひっぱり出してきたが、皆「ほん、ほん(ふん、ふん)」と聞いている。熱心である。
 
  松下礼子も貼りだしていた。今回は始平公を4枚、「石」・「有」・「國」・「造」という文字が並んだ。
「先月からでゃあぶ書かれたわね、ようなっとるもん。先月は初めてゆうこともあったかしゃんと思うけど、今回はぐんぐん書いとらっせるわ。ただ「國」は構えと中がちょっと空気が違っとりゃせんか。同じ気持ちで書き通すことがでゃあじ(大事)だぎゃあ」さすがにスーパーバーバ中森綾乃は褒めるだけでなく問題点もさりげなく指摘した。それに刺激されたかムーミン川田が「そう見てゆくと「造」も全体的にばらついちょるねえ、「有」も一、二画と月の部分が変に離れちょるもんねえ。「石」の二画目、左払いなんかも弱いねえ」
 ここでムーミン川田の名誉のために申し上げておくが、決して機に乗じて人を貶めようなどという気持ちは微塵もない。あまり浮いたようなことも言わないし、空気も一切読まない。マイペースでやっているだけである。ポロロッカ田畑のような仮面社会人なんかとは対極に居る人と見てよい。
 この後も何人か感想を言ったが、良いところを認めながら食い足りないところを指摘するようなもので、要するにもうお客さんではなく仲間としてしっかり磨き合おうということだ。松下礼子もよく分かっていて、にこにこしながら時に真剣に深く頷いたりしている。筆人会の良いところである。
 
「ほうか、ほうか、ほん、ほん、ほんそら良かったぎゃあ」と片丘美鈴。松下礼子と何か話している。「たまには教室終わってから美味しいもんでも食べに行こうみゃあ、おごってたますで」と美鈴から誘いをうけていた礼子だったが義理の母親が寝付いているため、滅多に羽根を伸ばすこともしないで居たが、礼子の家から蘭電でふた駅先の蚕の祠というところに亡くなった主人の妹が居り、今日は食事の用意、母親の世話をしてくれるらしい。それで時間が出来たと話しているのだ。ふだん滅多に無理を言う礼子ではないが、どうしてもという時はふた回り近く年下の義妹に頼む。義妹にとっては実の母親で、何ら断る筋のものではない。むしろ、自分は子供4人の世話に追われているため、いつも礼子に母親を任せっ放しで恐縮しているくらいで「お義姉さん、いつでも言うてちょうーせ。義姉さんばっかしに苦労かけとるで申し訳ないみゃあ」と言っている。
 礼子も初めて教室に来てから早や今日で5回目を数えていた。生ビールの美味しい季節到来である。美鈴、康子は独り身の気楽さも手伝ってよく一緒に連れ立って出かける。二人ともよく飲み、よく食べ、よくしゃべる。不景気で意気上がらないおやじ顔負けである。そこに今日は礼子とみつ子が加わる。4人が行こうとしているのは教室からほんの近所にある居酒屋〈横町〉である。
 
 話は少しそれるが、東海サークルの成り立ちにはちょっと変わった経緯がある。田森紫龍が名古屋に居たこともあり、紫龍を慕って人が集まって来て筆人会に入り、地域の活動拠点として東海サークルが出来たが、紫龍が亡くなってからその活動はずいぶん沈滞した。一方、田森紫龍に若いころから私淑し、島根を出て教えを乞うた今治大徳はずっと小学校教諭で校長まで務めた。退官を機に八宝会という中華料理のような会を創った。「参加者する者それぞれが宝であるぞよ」と大徳らしい命名と言うべきであろう。田森紫龍が書に対して厳格で妥協を許さないのに比べ、今治大徳は親しみ易く、開放的なためその人柄を慕って教え子の母親たちがぞろぞろ集まって来た。ここで鳥飼などは「なんでだ~、なんで教え子とかその娘とかは来んのか」と思ったりするが来んのである。現実は雄弁にも鳥飼より二回りほど上の大姉が揃っている。そんな大徳も紫龍の後を追うように三年前に逝った。従来からの東海サークルのメンバーと八宝会のメンバーが寄り合って現在の東海サークルになっている。が、八宝会のメンバーが圧倒的に多い。
 
 因みに鳥飼、ポロロッカ田畑、古林靖国、中森綾乃などは紫龍に師事した者たちであるが、大徳は言わば兄弟子のような存在である。大徳の人となりを言えば枚挙に暇がない。風貌はかなりいかつく、あるときなど黒いサングラスを掛け黒いセドリックの後部座席から降りて来たときはどこの組長かと間違えるほどのド迫力であった。皆との会食のあとなども「シーッ、シーッ」と立膝しながら豪快に楊枝を使ったものだ。またプロレスが好きで電車に乗るときはよく東海スポーツを愛読していた。しかし一方で草花をこよなく愛し、夏の暑いときなどに校長室をおとなうと、クーラーで冷やしたグラスと飲み水にさりげなく山椒の実を入れて振舞ってくれたりするやさしさがある。鳥飼はある墨人の夏合宿で、なかなかその場所に馴染めないからと言って、皆がエイッ、エイッと大筆で書いている片隅で半日も半紙で黙々と臨書している大徳を見ている。この人の意外な一面だ。
 またこんなこともあった。病に倒れてもう先が長くないというときに鳥飼とポロロッカが大徳を見舞った折、二人がビール好きというのを知っている大徳は、話すのも億劫な様子ながら枕の下から皺だらけの千円札を取りだして「ビール買うて来い」などと気遣うのである。その二日後に亡くなった。
 葬儀のとき、辻井極太が弔辞の最後に「今治君、僕は寂しい!」と声を絞り上げて嘆かれたのを聞きながら、父親のときですら涙を流さなかった鳥飼が不覚にも胸を詰まらせた所以である。
 
 大徳は八宝会での勉強が終わってから皆を誘ってよく居酒屋〈横町〉に飲みに行ったものだ。美鈴、康子、みつ子もよく連れて行ってもらった。加代は飲めないので残念ながら遠慮することが多かったが・・・
「ここは魚が新鮮でいいぎゃあ、刺身でも焼き物でも調理する前に席まで来て食材を見せてくれるわね」と美鈴。
「ここのあまえびがええがね。なんぼでも食べらるるで」と井ノ上康子も続く。
「まあ、ゆっくり食べたらええで。とりあえず乾杯しょうみゃあ」と言いながら黒石みつ子がジョッキを持ち上げた。
「ほや、ほや、ではお疲れさん。ほいで松下さんにも乾杯」と美鈴が発声した。
「く~、く~、く~っ」と康子が一息であらかたジョッキの半分ほども飲む。
「相変わらず飲みっぷりがええぎゃあ、お茶のときもそんなふうにやっとらっせるの」と美鈴が冷やかす。
「たーけらしいこと言わんといてちょーせ。いっぺんしとやかなお点前見せまおか」こんなやり取りの間に料理が運ばれ、礼子は横でにこにこ笑いながらもの珍しそうに店内を見回している。
「松下さんはあんましこんな場所には来られんの」とみつ子が聞く。
「ほとんど初めてです。主人は飲む人でなかったですから」
「ほうかな、ならこれからちょくちょく誘わしてまうで。こん店は今は大通りに面しとるけど、前はほんまに横町にあったがねー、メジャーになったがや。私らもひと花咲かそみゃあ、今にメジャーになろみゃあ」と上昇志向の美鈴が言う。
「前の店より立派で綺麗になったやが私は前の店のほうが落ち着くなも」と情緒的なみつ子は意見が違う。
「私は料理がうもうて冷えたビールが飲めたら文句ないぎゃあ」と歯の間に甘えびを挟んだ康子が言った。三者三様である。
 
第三章
 
 ひと月の夏休みのあと、東海サークルも9月になると動き出す。この日勉強会のある第二土曜日は暑さも漸く峠をこしたとはいえ、じりじりと照りつける太陽が恨めしくなるような残暑の厳しい一日となった。しかし筆人京都展を控え、皆力が入るらしく早々に顔ぶれが揃いだす。
 
「あれー、やっとかめ。元気でいりゃーしたか」
「今年の中京商業はおしかったなも」
「9回のあそこでエラーしたらかんわな」高校野球の話らしい。
またこちらでは、
「あんたの日傘なかなかええ柄やねえ、上品だわ」
「これは娘のを借りて来てまったわ。私のは孫が遊びに来てから破いてまったがや。男の子は小学二年にもなると、いたずらが過ぎるでかんわ」
「あのいつも洟たらしとった高富くんか、もう二年生になりゃーすか」などと、どうでもいいような話にあちこちで花が咲く。
「合宿の川田さんの発表なかなかよかったなも」黒石みつ子が何とか戻した。
「そりゃまあ熱心に島根からここまで通っとらっせたからにゃあ」と美鈴。
「それに人柄がええでな。得しとらっせる」と鳥飼もつづけた。
 
 東海サークルでは夏合宿の川田啓介の造像記発表をひとつの区切りとして、9月からは王羲之の蘭亭叙を半切で勉強することになっている。
「これで合宿に造像記を持って行ったら、一段落するもんで今度は蘭亭叙をやりゃせんか。それに半紙で書くのもええけど、半切で書くこともでゃあじ(大事)やと紫龍先生もおっしゃっとったで」などと、古林靖国、鳥飼哲千代、中森綾乃らが中心となって7月の勉強会のときに決めていたのだ。お分かりかと思うが、ここでもポロロッカは欠席である。例によって法事らしいが、鳥飼はポロロッカの法事とは、サウナに入って気持ちよく汗を流し、そのあとマッサージを1時間ほどしてもらってそれからおねえちゃんとご飯を食べにいくこと、と理解している。ほぼ間違いない。
 
 すでに仕事の手際がよい畠田加代が東海サークル通信で夏休み中に皆に通達していた。したがってこの日は宿題として蘭亭叙を半切に書いてくることになっている。
 蘭亭叙は書を志すものならばいまさら説明の必要もないほど誰もが知っている有名な王羲之の最高傑作とされている。その優美な姿は唐、太宗の溺愛するところとなる。太宗は言う「尽善尽美はそれただ王逸少あるのみ、その点曳の工、裁成の妙、煙霏露結の状、断ゆるがことくにしてまた連なり、云々」と。その溺愛のあまり、太宗は自らの死に際してその真筆をあの世に持ち去ってしまった。現在伝わっているものは、欧陽詢、虞世南、褚遂良に臨模させたり、搨書人などによって籠字にとって中に墨を埋める双鈎填墨という技法によるものなどいろいろの本が伝えられている。ゆえに書風の異なったものが幾通りもある。宋代になると各種の伝本に基づいて石に刻された無数の拓本が流布するようになり「二百蘭亭」ほどになった。王羲之の崇拝ぶりがうかがえる話である。
 因みに田森紫龍先生は、「蘭亭叙」各種あらすが、神龍半印本は穂先がしなやかに
よう出とる、張金界奴本は線の密度、こっくりとした味わいが一等よう出とるわ。ほいで頴上本はどえらけにゃあ簡約した筆で響きの高さに特徴があらす、小生一番すきだがや。-中略ー神龍半印本、張金界奴本をやって頴上本で仕上げるに限りゃあ」とおっしゃっている。
 
 今回は半切を家で書いてきてあるので、一通りの挨拶が終わったところで、早速一人一点鴨居にハンガーで吊るしていく。例によって、片丘美鈴が一番に吊り、黒石みつ子、井ノ上康子、畠田加代、中森綾乃、鳥飼哲千代、古林靖国と順々に吊っていく。松下礼子も遠慮がちに吊る。そしてもう一人今日は珍しく田畑満千穂の顔もあり、最後に吊った。
 最後に吊られたポロロッカ田畑の臨書に皆は毒気を抜かれたようにしている。ひとりだけ明らかに違うのだ。蘭亭叙の優美さは微塵もなく、竹山連句のような骨太の線の中に本人なりの切れ味を尊ぶような線で一貫してかなり趣の違う代物である。
「や、や、何やこれ。田畑さん独特の世界やなも」とおしぼりで口元を忙しく拭きながら古林靖国は何が嬉しいのかニヤニヤしている。
「こんな風にようも書けんて、やっぱり天才は違うがね」と少なからず毒を含んだ批評は美鈴だった。鳥飼は黙っている。内心「勝手にすりゃあ」と怒っているのだ。
「どんな風に見たらこういう出方するんやろ。私なんか常識に捉われて自由に書けんもどかしさがどうしても残るに。古典の見方が違うんかしゃん、ねえ田畑さん」と質問で返す中森綾乃。井ノ上康子は哲学的な命題を抱えているかのように眉間にしわを寄せ歯を食いしばってこめかみを親指でぐりぐり押している。
 皆にせかれて何か一言いわねば済まない空気を察して、田畑はようように口を開いた。「まずその法帖を見たときにな、書ける場所と書けん場所があらすわな。書けん場所をなんぼ書いてもしょうもないで。一字の中にも書けん部分もあらすわな、そこをどうするかいうことやで。当たり前に書いちょってはだちかんわな。もう内臓が捩れるくらいの意識でもって、横隔膜をこう下げてからに、落とし蓋を落とすような気持ちでやな、筆を抑え込みながら、決して筆を押し付けないことがでゃあじやな。ほいで五文字なら五文字を書き通すにしてもや、十分に筆の抑揚を感じながら、時間をかけながら時間をかけん、感じさせん。これが書の秘密だがやー」と言い終えて田畑はなぜか大仕事をやり遂げたかのように艶のいい顔を満足げにさらに艶々させている。鳥飼は黙ったままでいる。内心「何とでも勝手に言いやあ。この男には人に伝えよう、わかってもらおういう気持ちが微塵もあれせん」と怒っているのだ。結局いつものように結論らしい結論のでないまま田畑の臨書をやり過ごすことになる。
 何人かの批評が終わって松下礼子の臨書の番がやってきた。半切に20文字ほど並んでいる。一見して線の変化に乏しく、どうやら回腕法で書かれたもののようである。
 
 回腕法は明治初期に中国大陸、当時の清から揚守敬が日本の書人に三顧の礼をもって招かれて六朝の碑版法帖一万有余点とともに伝えたとされる。筆管を真っすぐに立て、腕を大きく回して運筆するときにも決して筆管を傾けない。筆管の上にコインを乗せて書いても落ちない要領である。俯仰法とは対極にある。因みに日本では日下部鳴鶴が有名であるが、彼の回腕法以前の書は素直でなかなか玩味があった。回腕法ですべてを失くしたと言ってよいであろう。但し巖谷一六や松田雪柯らとともに書道史に名前は残った。しかしながら現在でこそその評価は相半ばするが、作者などは歴史が証明する中で汚名として残ることは必定であると考えている。
 
開口一番
「この臨書はいただけんわ」と吐き捨てるように美鈴が言った。
「何か礼子さんの臨書とは思えんわ」とこめかみぐりぐり康子。
「造像記」のときの思い切りというか、闊達さがねえ、どう言うたらええんやろ。蘭亭の表面的な形だけが見えるなも。なんか形に奉仕するというかな・・・」言葉をえらぶ靖国。
靖国の聞きようによってはまどろっこしい言い方に焦れて、かぶせるように
「線に何の変化もあれせんし、しこっとる(格好つけてる)でかんわ。こったらことでは猫の年が来ても書いちょる意味なんてわからんて」と美鈴がさらに言い放った。
 最初はにこにこと聞いていた礼子も照れくさそうに顔を赤らめ、ますます血が上ったように上気して、やがてみるみるうちにスーッと血の気がひいて青ざめて行くのが手にとるように分かった。
 美鈴の批評がちょっと常軌を逸していると気遣ってか、先ほどから綾乃が鳥飼の方を見て目配せをして来るが、鳥飼はこれといった妙案が浮かぶでもなく、その場はぎこちないウインクでやり過ごした。
 鳥飼は今日、美鈴に会ったときからちょっと気になっていた。美鈴の持病である偏頭痛が出たのではないかということだ。証拠に両の首筋にピップエレキバンがきれいに数珠のように並べて貼ってある。以前美鈴から「偏頭痛が辛ろうてかんわ。肩から首にかけてのコリからきとるんよ。エレキバンはよーも効かんけど貼らんよりましやて」と聞いていたからだ。今日の癇癪は偏頭痛から来ていると睨んだ。そのうえ更年期障害も重なっているかもしれないと睨んだ。睨みっぱなし。
 
 場の空気が悪くなったことを察して、機転の利くこつま南京加代が、「ちょっと早いけどお茶にしょうみゃあ」と言ってその場を救った。お茶のあいだは他愛もない話に終始する。
 そのとき田畑がぐりぐり康子の蘭亭叙を見ながら、「ずいぶんよう書けとるで。文字の骨格、芯がブレとらんところがええんや」とちょっと褒めた。鳥飼は内心「おみゃあさんの人生がブレとれせんか」と毒づいたが、もちろんおくびにも出さないで汗でずり落ちそうな眼鏡を指でグイッと持ち上げ、お茶をズズッと啜った。
ぐりぐり康子は喜ばんことか、
「田畑さん、このきな粉餅食べせんか、娘が作ってくれたぎゃあ」と皆にお裾分けした分とは違うところから大事そうにいそいそと取りだしてきて勧めたりしている。
「まあ、お茶もお代わりしゃあーせ」えらくサービスがいい。
「ほったら田畑先生のお教えのように横隔膜を下げて、落し蓋を落とすような気持ちでもうちょっと書こみゃあ」と半ばやけくそで鳥飼が言ったので、皆もめいめい臨書を再開していった。
しばらく黙々とそれぞれ蘭亭叙に取り組んでいたが、美鈴が「あー、もうかんわ。気分が乗らんで今日は早ように失礼させてまうわ」と勝手口を出て筆を洗いに出た。
 
 何事も自主性を重んじる筆人である。気分の乗らないときは「書かんでええ」と言う空気だ。皆も何事もなかったように臨書に集中している。どれくらい時間が経ったか、康子が「美鈴さんやけに遅いわな」とひとりごちて勝手口を出て様子を見に行った。
 
「ぎゃ、ぎゃぎゃ、ぎゃ、ぎょっへー」と鶏を三羽くらい踏みつけたような異様な叫び声は康子の声と思われた。皆は「何事やーっ」と一斉に勝手口に走った。駆けつけてみると一度外に出て、にわかに戻り、勝手口の上がり框までたどり着いたところで力尽き、何か拝むような格好で康子がうつ伏せに倒れていた。普段から少しО脚気味の康子が両足裏を揃えるようにちょうど♂の印しのような格好で口から泡を吹いて失神していたのだ。ショックの大きさを知るべきであろう。  
 
 その後皆が見たものは、勝手口を出た所にある洗い場の前に、頭を割られ血みどろになって倒れている片丘美鈴の変わり果てた姿であった。
 
最終章
 
「松下さんのしたことは許されるもんやあれーせんけども、分かるような気もするで」鳥飼はしみじみ言った。鳥飼哲千代が十月の勉強会に集まった皆を前にしてその顛末を話しているところである。美鈴の葬儀のときにも何人か顔を合わせているが、これだけ揃うとどうしてもその話になる。
 
 鳥飼は事件当日、批評の後の礼子の様子が何とも気がかりで時々目を配っていた。あの時・・・誰も気づかなかったようだが、美鈴が「気持ちが乗らん」と言って筆を洗いに立ったのを見た礼子が能面のように無表情な顔をして立ち上がり、スッと美鈴の後を追ったのである。
 事件の後、勿論警察が来て現場を検証した.凶器と思われる無造作に新聞で包まれた鉄の塊を採取したあと、ひとりひとりに事情聴取した。それぞれに神妙な顔で答えていたものだ。礼子も例外ではなかった。警察はそのあと、とりあえずは引き上げて行った。 
 翌日、鳥飼は礼子を話があるからとドライブに誘った。もう十年は乗っているとはいえ、異常にメッキの剥がれた片腹の凹んだカローラに乗せ、安城市郊外をあてもなく走った。
「僕の方からどげんな、とはよー言わんで自分から話してくれまいか」
 礼子は昨夜眠っていないらしく憔悴が細面の顔に深い影を落としている。しばらく黙ってうつむき加減に前を見ていたが、不意に「取り返しのつかないことをしてしまいました。美鈴さんは良いひとでした」と決然とした口調で言った。鳥飼は黙っている。
「お盆も近づいた七月の終わり頃、押し入れを整理していますと主人の物をまとめた箱のひとつから仮表装した軸が一本、手紙と一緒にでてまいりました。・・・
半切に書いた蘭亭叙の臨書でした。しっかりした展覧会に出すなら仮表装はおかしいなと思いました。一緒にあった手紙を読むと、主人の母校藤塚大学書道部の学生、多分部長でしょうか、が主人に宛てたものでした。
 
松下象石先輩
 『この度は創部四十周年の記念展に我々の拙い作品の中に大変立派な臨書を賛助出品していただきまして誠にありがとうございました。大学の予算の関係もあり仮表装で失礼いたしました。私などまだまだ見る眼もないのに僭越ですが、象石先輩の蘭亭叙の臨書作品は凛とした姿形のなかにも上品な艶があり遒媚勁健、まさに王羲之ですね。私たちが目指すべき臨書の頂点とも言える作品ではなかったでしょうか。顧問の黄檗白鳥先生も絶賛されていました。本当にありがとうございました。われわれ現部員は今後とも諸先輩方の温かい励ましに応えられるよう・・・・』
 
 「最初は何気なく眺めていただけでした。そんなときに畠田さんから東海サークル通信をいただいたのです。最初は戯れに、これを九月の勉強会に出したら皆さんなんて言うかしら。褒めるかしら、羨むかしら、などと空想で遊んでいたのです。しかし、一度心の中に点った小さな想いは私の中で燎原の火のように燃え広がりました。馬鹿な!と何度も自分を窘めるように思いを打ち消そうとしましたが、出してみたいと言う気持ちは抑えきれないものになっていました。そして私、決めました。決めたらもう迷いませんでした」
 
 「やっぱりあの臨書は・・・」鳥飼はきつくハンドルを握りながら深いため息をひとつついた。
 
 批判されても構わないと思っていました。だって筆人会の傾向はちょっと違うなと思っていましたもの。それくらいは私にも分かりました。美鈴さんの批判も聞き流せるつもりでした。・・・でも・・・私の認識不足でした。筆人会の人たちは書に命を懸けておられます。傾向などと言う生易しいものではありませんでした。それを私は甘く見ていました。主人の臨書の批判を聞いているうちに、主人の書道人生ってなんだったのだろう、主人の求めた価値ってなんだったのだろう?そんなところまで追い詰められたように感じました。まるでプラタナスの枯れ葉のように軽い、一片の値打ちすらないもののように思えてきました。そしてそんな主人をひたすら信じて尽くす、いえ主人の添え物のような自分の人生は何だったのだろう・・・あまりにも惨めで自分が情けなく・・・美鈴さんや皆さんの批評に落ち度はありません。自分の信じたことをしっかりと言葉にされていますものね。私が採り方を間違えただけなのですわ。どこまでも愚かで馬鹿な・・・」あとは言葉にならなかった。俯いた蒼白の頬にほつれ髪が一筋這った。
 鳥飼はこの時ふと、「この人は芯の勁い人だな」と半ば尊敬に似た感情を抱いた。
それから二人は黙ってどれくらい走っただろうか、前方から汐留橋が見えてきた。車のCDからは七歳で神童と呼ばれ、若くして精神の病から今は廃人同様となった渡辺茂夫の哀しくも美しいチゴイネルワイゼンの陰鬱な旋律が響いていた。
 演奏に耳を傾けていたのか、終わると同時に「身辺の整理を手早く済ませて自首します」と、礼子はきっぱり言った。
 
 
「自分の信じとるもんを人から全部否定されたらどこへ逃げたらええんかいな。なんか松下さんの気持ちを思うたら辛ろうてな。それに、美鈴さんを文鎮で殴ったとき、本人はぜってゃあ(絶対)覚えもよらんはずやが自分からは『覚えとらん』などと月並みな言い訳はせんかったでな・・・」鳥飼が天井の一点を見つめながら呟いた。
 
 臨書に入る前に皆は車座になって顔を揃えていた。ただ、古林靖国はノーコメントを決め込んで車座から外れ、先ほど古本屋で見つけてきた古法帖に煙草をくゆらせながら見入っている。ポロロッカ田畑は法事で休んでいる。網戸久美子は夏が過ぎると姿を見せなくなった。
 
「美鈴さんだけやのうて私もちょっとばかし言い過ぎたわ」と康子。
「そんなことあらすか、井ノ上さんはそんな酷いこと言いやせんで」とみつ子が庇う。
 
「いや、みんな言い過ぎちゅうことはないわ。美鈴さんやってちょっと言葉はきつかったけど間違うとりゃせなんだもん。松下さんの想いが美鈴さんの言葉でもってこんがらがったんかな」とは調和と論理を尊ぶ中森綾乃らしい。
 
「東海サークル通信、送るタイミングがわるかったかしゃん」と加代も沈み顔だ。
 
「口は禍の元と昔から言うわなあ。これ難しい問題やで。自分の側からの論理では正しいもんやからハッキリいうけども相手からしたら、なんでそんな言い方されんならん、と思うこともあらーすわな。お互い口の利き方には注意したに越したことないがや」と鳥飼。
 
すると、間髪を入れずに康子が頭のてっぺんから出たような金切り声で
「まー、鳥飼さん。すいたらしいことようもしゃあしゃあと言いやーすなあ。誰の倒れてる姿かたちが♂の印に似とるやて。か弱い乙女に対する侮辱やでな。今世間で煩そう言うとるセクハラたらモラハラいう奴やでな。今日はわらび餅たんと持ってきたるけどあんたにはやらん!」と鳥飼の前の風呂敷包みを自分のところへ引ったくって高々と宣言した。
 
 皆はどっと笑った。「さあ、書こまい」と綾乃が感傷を振り切るように勢いよく言ったので「よし!」とそれぞれが机に向かって行った。
 
                    
                                      完
 
 
 
 
 
 


 
 
 

 タイトル2

 
鋭意構築中(^^。)
 
 
 

 タイトル3